第22回 続・ヤバいぞ、「本末転倒」
2025.01.27

学校現場で働いていた時代の、最後のあたりに近づくほどに、そこで一緒に働いていた先生たちの苦悩の声が強く聞こえてきました。
「教員の仕事って、いったいなんですか?」
なぜ、それが疑問になるのか。

学校というところには、いつの時代にもたくさんの課題がありましたな。
例えば「非行」。

学校用語でいえば「問題行動」ですが、今でいう「反社」ですね。昭和の終わりから平成にかけてピークだったような気がしていますが、あの頃の「荒れた学校」(私もそこにいた)には、社会全体から「子どもに悪いことをさせるな!」という声がぐいぐい押し寄せていました。だから先生たちは懸命に「悪いことをしない子ども」に育てようとしていましたね。
その次に社会から学校に押し寄せた声が「いじめをさせるな!」でしょうか。これも重い社会問題になりました。学校も教育委員会もこの時代に社会的な信頼感を大きく失ってしまいました。これはまだまだ続いています。
その次に社会から学校に押し寄せたのが「学力をつけろ!」でした。全国学力テストの結果が自治体単位で公表され、マスコミは別に頼んでないけど順位表まで作ってくれました。自治体の首長さんはかなり躍起になって「順位を上げろ」と学校に命じてくれました。トホホ。

突出した課題が社会問題になるたびに「それを何とかしろ!」という声が学校に届く。そして現場にいる先生たちは本気で何とかしたいと考え、懸命にがんばってきた。その歴史をぐるぐると繰り返している。私はそう思っています。

でも、私はこうも思うよ。
その連続によって、学校現場の先生たちの中に「自分たちの仕事は、社会的な要求に答えることだ」という錯覚が生まれてるんじゃないか。
「社会的な要求」は、実際には学校を所轄する教育委員会から管理職を通じて先生たちに伝えられるわけですが、最初に例に出した「少年非行」が学校にとって大きなお題となった昭和の終わりごろから、その「社会的要求」との格闘が、学校にとって大切な仕事になってきて、その構図が今でも続いている。
それに対する疑問なんでしょうね。だから、こんな言葉が出るよ。
「教員の仕事って、いったいなんですか?」

それに疑問を感じた先生、あなたは正しいよ。それは、教員としての感性が枯渇していない証拠だよ。
教員の仕事は、社会の要求にこたえることじゃなくて、未来の社会の一員となる、ひとをつくることだ。

私は、これをずっと伝えてきたと思うのです。
お上から降ってくるお題に立ち向かうことは間違いじゃない。でもその仕事に取り掛かる前に、「自分がやろうとしているこの仕事は、子どもたちを人として育てることに、どう役立っていくのか」を考えることが大事なのだね。
勘違いをすると、やばい。
「悪いことをしない」「いじめをしない」「学力がある」…それは確かに大切なことだけど、ほんとうに大切なことって、それぞれのお題を解決させることなのかな。
ウコンをのめば、大丈夫!というヤバい考え方は、言葉を入れかえれば「悪いことをしなければ、大丈夫」「いじめをしなければ、大丈夫」「学力があれば、大丈夫」になるな。
それで、いいのかな。
じゃあ、ほんとうに大切なことって、いったいなに?
これを説明する方法を、私は考えたのです。
思いついたのが、この絵だ。

大きな袋のなかに、小さな袋がいっぱい入っていますね。
小袋には名前が書いてある。「学力」「規範意識」「思いやり」…。そうだ。学校現場で「お題」とされてきたことだ。学校の先生たちが続けてきた努力のひとつひとつかもしれない。でもよく見れば、ほかにもたくさん小袋があるぞ。
「健康」「ユーモア」「生活習慣」「運動能力」「素直さ」…。ほかにもたくさんありそうだ。
おわかりでしょうか。この小袋は、「人をつくるために重要な、さまざまな要素」なんですね。

先生たちは、ほんとうにまじめに、「悪いことをさせるな」と言われれば「規範意識」という小袋を子どもたちのなかに入れこもうとがんばってきた。「学力をつけろ」と言われれば「学力向上」という小袋を用意した。それぞれのお題を指示されたときには、それは確かに大切だから、とがんばって小袋をつくりあげて、それを子どもたちの中に入れこんできた歴史があったけど、実は「確かに大切だ」と思えることって、ほかにもたくさんあったのです。
お題が出現するたびに新しい小袋をどんどんこしらえて、子どもたちに入れこもうとした。
これを、ずっと続けると、どうなるでしょう。
さっきの「大きな袋」の絵にもどれば。

そりゃそうよね。スーパーで一枚5円で買うレジ袋、せっかくだからたくさん入れてやろうとぎゅうぎゅうねじ込んでたら、いつか、袋は裂けてしまう。袋が使えなくなったら、もう一枚買えばいいけど、これは人間の話だぞ。
学校の先生たち(あるいは親も)が、「これは大切なんだよ」と言いつつ、子どもたちにぎゅうぎゅう押し込んできた歴史って、かなり長いですよ。
だから、「袋が裂けちゃった子どもたち」は、今までもいたはずなんだ。

はて。
この、大袋って、なんだろう。

今まで、この大きな袋のことは、あまり考えずに、小袋をあとからあとから詰め込んでいたのですよ。改めて考えてみよう。これって、なに?
はい。それは、子どもひとり一人の「自我」とでも言いましょうかね。

つまり、自分を「ひとりの人間にさせている力」のこと。
私は思う。「人をつくる」という仕事の本質は、この大袋を、しなやかに強靭に、そして少しずつ大きくしていくことだったはずだよ。
今の時代、最新の「お題」の代表的なものが「不登校」になっています。
不登校の子どもは、この「自我」という「自分を保つ力」がガス欠状態になっているんじゃないでしょうかね。

「本末転倒」の話に戻ってみようか。
ウコンをのめば、大酒のんでも大丈夫 → 大酒で肝硬変になる → 人生終わる

これと同じだ。つまり。
(先生)これは子どもたちのために絶対にいいことだから、どんどんつめこもう → (子ども)とりあえず頑張ってみるよ → あとからあとから詰め込まれるの、つらいです → もう、おなかいっぱい。→ 期待にこたえられない自分ってダメなやつ → ダメな自分のまま学校行くのが怖い。社会に出るなんて無理

「教員の仕事っていったいなんですか」という疑問をもった先生は、きっと気づいてるのでしょう。
子どものためと思って、小袋をどんどんつくり続けることが教員の仕事じゃない。むしろ、その小袋を受け止める大袋を育てることの方が大事なんじゃないか。

そのとおりです。そのことに気づいた先生は、きっとこう考え始めるよ。
子どもたちの「大袋」がいまどれだけの容量をもっているのか、どんな負荷や刺激に耐えられるかを見極めよう。そしてどうすればこの子の袋は、頑丈で弾力のある、いい袋に育っていくのか。その道すじを考えよう。
こんな考え方で仕事をする先生が増えていけば、きっと学校は変わりますよ。

さて、ここから後は、おまけ。(あるいは蛇足)
コロナ禍で世界中が病んでいた時期。この論争が巻き起こりました。

経済活動さえ自粛の波をかぶろうとしていたときの議論です。

「健康(生命)を守ることがすべてに優先する!」という意見と「経済活動を止めたら人は生きていけないのが現実だ!」という意見。このふたつだけが異常にクローズアップされ、まさに「経済」と「健康」の二大価値の一騎打ち、みたいな感じでした。もう過去のことになりつつあるからそろそろ忘れているかもしれないけれど、この議論もかなりヤバかったですね。だって。

あの頃、こんなことも見えなくなっていたんだと思う。文化とか芸術とか、話題にすらできなかったような気がするんです。
人間社会には、もともと「健康」と「経済」以外に、大切な価値をもっているものが山ほどあったはず。

読者の皆さま。この「大袋と小袋の図」をすでに見ていただいているので、きっとお気づきでしょう。この図式の場合、外側の「大袋」はなんでしょうか。

それは、人間社会を「社会」と呼べるものにさせている要素なんですね。
つまり、「そこにいる人たちが、つながっている」ということです。

人と人がつながっていない状態であれば、それは社会じゃない。ただの群衆だ。
社会、というものにはさまざまなサイズがありますね。「国家」であれば国民を互いにつないでいる要素も多くて多様でしょう。ぐっとちいさなコミュニティみたいな社会ならもっと繊細で心情的なつながりが大切だと思います。いずれにせよ大切なのは「他者とのつながり」ということなんですね。
これ、ずっと力説してきた「人を人としている要素」という大袋と共通していると思います。
大きなヒントになると思うんです。「人を人たらしめている要素」の中で、一番大切なことは何か。

なんだかむずかしいお話でおわってしまうのは申し訳ないです。でも、これを書かなければこの連載を始めた意味がないと思うのでごめんなさい。
次回は肩の力を抜きますね。ふにゃ~。
