第20回 四角いスイカはこう語った
2024.11.03
それにしてもこの「四角いスイカ」話については、とても長く語ってきました。今年の夏はうんざりするほど長く暑かったんだけど、その夏に入る前からこの話は始まってますね。
振り返ってみれば、スイカの話を始める前に、こんなタイトルで書いたお話がありました。
「見えているものの、向こう側」。
いま、現実として目の前に見えているものがある。それは確かな現実なんだから、わかりやすく具体的な何かを、見ている私たちに伝えてきますね。
でも、確かに「見えている」と思っていることが、すべてなのか。
その稿には、こんな言葉を書いています。
「世の中が、私たちに見せてくれる風景。それは実像なのか。マスコミやネットが伝えてくれる情報。それは真実なのか。」
長々と語ってきた「四角いスイカ」のお話は、この言葉の、インパクトのある具体例のひとつだったんですね。
外見はすごくユニークで奇抜な四角いスイカだけど、それは人の手で四角くパターン化されたもので、もはや愛すべき夏の果物ではない。なにしろ食べられないんだからね。
残念なことに、一見すごく刺激的で人々を驚かせるような情報ほど、爆速で伝播し、収拾がつかない拡散力をもっています。これが現代社会の姿。これはちょっとどうにもなりそうにないですね。
「四角いスイカ」が象徴するさまざまなことは、教育とか社会の中にある大きなまちがいに通じています。
ところが。考えてみれば。
「四角いスイカ」は、確かに人の力で強引に成型されたものですが、粘土を四角く固めてつくったものじゃなかった。
この「四角いスイカ」のお話はこれから、ついに結末を迎えます。
私が、中学生や先生たちの前で、得意げにこの「四角いスイカ」の現物を見せてお話をしたのが、一学期の終業式。明日から夏休みだ~!という日でした。この日を最後に、生徒たちとは40日ほど会うことはありません。
夏休みに入りました。四角いスイカは、閉め切られた校舎の中で長く暑い夏の間、校長室の前の廊下に展示された状態でじっとしていました。当たり前か。でも大切なことは、「四角いスイカは粘土細工じゃなくて、生きた植物だったということ。
今年の夏ほどじゃなかったですが、この年の夏もやはり暑かった。でも9月になったら新学期は始まります。この年の新学期(2学期)が始まるのは9月1日。教室にエアコンなんかなかった時代の話ですね。
新学期初日には「始業式」というのが昔からありますね。
やはりここで生徒たちは強制的に「校長先生のお話」を聞かされます。
会場は体育館。全校生徒+職員がそろうと1000人近くの人間がぎゅーぎゅー詰めです。これはかなりに気の毒な状況ですから、つまらない話なんか絶対にできない。四季を問わず、この「体育館にぎゅーぎゅー詰め」(略して「体ぎゅー」)状態で、いかに聴き手を私のお話ワールドに引き込むか。
これが私のミッションでした。
そこで、四角いスイカが再登場です。
またスイカネタかあ、いつまで引っ張るんじゃあ!と思われるでしょう。ところが「ひと夏を閉め切った廊下でじっと耐え抜いた四角いスイカ」は、再度スポットライトを当てるにふさわしい、実に驚くべき状態になっていたのです。 この画像をごらんください。
おわかりでしょうか。9月1日の「四角いスイカ」。その形をよーく見ると……?
上の部分、明らかにとんがってますね。
そして、底の部分も。
はい。ふくらんでいます!
底の部分が丸くふくらんでいるので、スイカ全体をエイッと回転させるとくるりんと回るんです。「体ぎゅー」状態の1000人近くの聴き手がどよめきました。横の4面もそれぞれふっくらとせり出しています。
夏休み前と後、比較してみましょう。
実は、私は8月の最後の週に、このことに気づいていました。
もうすぐ新学期だから、1学期最後のお話のネタだった四角いスイカもそろそろ片づけようかなあ、というぐらいの気持ちだった私は、大きな衝撃を受けました。
四角いスイカが、丸くなってる!
人間が型にはめて、まんまと四角く仕立て上げたスイカも、型から解放されると、元通りの丸い形に戻る、ということですよ。
つまり、閉め切られた猛暑の廊下で、40日以上の間、水分も養分も与えられなくても、スイカはひそかに自分の本来の姿に戻ろうとしていた、ということか…。
残暑の残る8月の終わりに、私はふっくらと丸くなった、かつての「四角いスイカ」の前で、しばらく動くことができませんでした。四角いスイカは無言で語ってくれたのです。
今まで長々とお話してきた、「四角いスイカ」が示唆すること、それは大人の前にいる子どもたちを同じ型にはめて、大人のイメージどおりに仕立て上げることの罪深さと愚かさだ。
私はいま、学校という場所にいる。学校は子どもたちにどんなことをしてきたの?
大人はよく「子どもの将来のために」なんていうけれど、私たちはほんとうに、純粋に「子どもの将来」を最優先で仕事をしているの?
「子どもの将来」を、都合よく「大人の事情」とすり替えていない?
こんな思いが、頭の中をぐるぐると回り始めました。
これを書いている現在でも、ときどきこの疑問が、私の頭の中に黒い染みのように発生するのです。
人の歴史の中で、社会全体が理性を失った時代がいくつもありました。いちばん最近のやつが「コロナ禍」かな。
社会が理性を失うと、必ず起こるのが「子どもの将来」と「大人の事情」の都合のいいすり替えだ。
コロナ禍を何とか乗り越えた人間社会、ほんとうの所はどうなんだろう。
天国の志村けん様はこう思ってるんじゃないかなあ。
だいじょうぶかぁ?
この「丸くなりたかった四角いスイカ」のお話、これでやっとおしまい。
次回からは、スイカ関連じゃない別のお話に取り掛かりましょう。