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第18回 「四角いスイカ」は、個性的か?

2024.08.07

ちょうど「四角いスイカ」のお話を始めたころから夏が本格化しました。急に暑くなってきたぞ。どこのスーパーの青果コーナーにもスイカが並んでますね。以前と比べると、確かに大きなスイカをカットしている商品よりも、小玉スイカの方が幅をきかせている感じ。種類も増えてますしね。

 でも、いま私が話題にしている「四角いスイカ」なんかどこのスーパーにもない。私が昔手に入れたのもネット通販だったなあ。現物を見てから購入したわけじゃないのです。

 ところが、確かに店頭に存在する「四角いスイカ」を目撃しましたよ。

 場所は、スーパーではなく、岡山市内の某デパート。いわゆるデパ地下。

 大きさは20㎝立方くらいかな。価格は税込12,960円!

 このお値段は、私が初めて四角いスイカをネットで購入したときとあまり変わりません。周りには普通のまるいスイカが並んでいて、小玉スイカだとせいぜいひと玉3,000円くらい。四角いスイカはリボンまでかけてもらって高価で販売されている、レアアイテムだっていうことですね。 

さて、読者の皆さま。この「四角いスイカ」の画像の、「向こう側にあるお話」はいったいどんな物語なのでしょう。

 私は、こんなふうに思いました。

 まわりにあるのは、大小さまざまの「まるいスイカ」。その中で明らかに異彩を放っているのが「四角いスイカ」だ。とにかく突出した外見。たくさんの人が足を止めて見入っていましたよ。丸いのがあたりまえのスイカの世界に、唐突に出現した「四角いスイカ」。この形から発するインパクトはとにかくすごい。すごすぎる。

 これを、中学生に見せたい!!!

 こう考えたのが今から12年前の私。

 毎日、向き合っていた教え子たちは、これを見てどんな反応をするのだろう。 この、究極的にヘンテコな果物に出会ったとき、彼らは何を思うのか。 ちょうど、時期はよい。スイカが店頭に並ぶ頃はちょうど夏休みの前だ。 一学期の終業式までに、これを手に入れておこう。

 明日から夏休み、という日におこなう「校長話」だ。

 その「四角いスイカ」をめぐる校長話、これこそ本題。ついにこの本題に入ろうと思うのですが、どうしてもここで別のお話をはさみたいのです。またか、と思われますよねえ。でも、これは私にとって大切なひと手順なのです。

 

私にとって、生徒の前でお話をすることって、どういうことだったのか。

これを説明しておきたいのです。

 

学校という場所には、生徒全員がひとつの場所に集められ、大人のお話を聴くことを強制される場面がありますね。その典型が卒業式や入学式、始業式終業式なんかの「式典」というイベント。そこで猛威をふるってきたのが「校長先生」という存在。

 全国各地の学校の、「〇〇式」という場面で、校長先生は生徒の前でお話をしてきましたね。いったいいつからなんでしょう。日本の学制というのは明治維新のあとすぐにできたから、そのころからかな。昔の校長先生はヒゲなんか生やしてすごくいばってたんだろうなあ。そんな昔からわが国の生徒たちは「校長先生のお話」につきあってきてくれていたわけか。この長い歴史のなかで「校長先生のお話」に対する彼らのイメージは、「長い」「つまらない」「わからない」で盤石のものになっている。そりゃそうだ。私が生徒だったときも同じことを思っていましたからね。

ところがです。

どうしたことか、この私も校長というものになってしまった。なったらとたんに生徒の前で「お話」をする立場だ。そこで決めたのが「自分のことを語ろう」ということでした。

教育関係の出版物には「心にひびく講話ネタ」「手軽に語れる良いお話」みたいなネタ本があります。こんな書物をそのまま暗記してしゃべる校長先生はあまりいないと思うけど、もしそれをやったとしたら、生徒たちはたちまち見抜くでしょうね。「この校長は、自分のことを語っていない。どこかで仕入れた借り物を披露してるだけだ」っていうふうに。

だから、校長になったときに私は決めた。「校長のお話」は、校長に与えられた、ただひとつの「授業」だ。その貴重な場面を無駄に使うものか。その時そのときの「自分」を、できる限りの準備と工夫によって、語りつくそう。もしも生徒たちが「つまらん」「わけわからん」と感じたならそれは全部自分の責任だ。そうならないために、私がやったことは。

 これ。

 当時の画像が残っています。ごらんください。

はい。式典でのお話は「トークショー」と呼ぶことにしました。

ショーだから、演者と聴衆という関係が成立します。演者は、質の高いパフォーマンスを実行するのが仕事。聴衆(観衆)は、演者のパフォーマンスを受け取り、楽しむ立場。演者と聴衆の間には、相互にリスペクトする関係が成立しうる。

これが原則。なかなか遠大なお題ですね。これを維持するのはなかなか難しいので、私が次に準備したのが「助っ人」。

これも当時の記録写真があります。

「助っ人」とは、人間だけじゃなくてICT機器をどんどん使いました。大規模校だと、生徒たちとステージの間が遠くて、なにか実物を見せようと思って持参しても、とにかく見えない。(この学校の生徒たちと最初の出会いのときには「どん兵衛」を持参しましたが、「これ、どん兵衛ね。」と言葉でフォローする必要がありましたっけ。)

だから、プレゼン用パソコンとプロジェクターは必需品でした。さらに、プロジェクターがあるんだから、ビデオカメラを接続すれば、小さな物でも拡大して聴衆に見せることができますね。これは便利に使えました。カメラを観衆側に向ければ聴いている生徒の顔がスクリーンに映っています。Youtubeを見慣れた生徒たちはすぐに受け入れてくれました。

そしてさらに「助っ人」としてお願いしたのが「生きた人間」でした。上の画像はその一場面です。

ステージ上でビデオカメラがその場の情景を映し出していることをヒントに、「インタビュー番組」みたいなつくりにしてみたのですね。

そのためにはインタビュアーさんが必要ですね。それに加えて、街頭インタビューにつきものなのがビデオカメラをかついだカメラマンですね。この2名のテレビクルーを引き連れてメインキャスターの私が登場する、というシチュエーションが出来上がりました。ちなみにこの2名とは副校長と教務主任。このくだらない役回りを大喜びで引き受けてくれただけでなく、わざわざ段ボールで作り物のテレビカメラを作り、その中に本物のビデオカメラを内蔵して撮影しまくる、という熱心さ。「テレビクルーって、こんな服装よな」と局名(МHK)入りの自作ジャンパーまで着込んで登場する無駄なこだわり。2人とも超多忙な学校の重鎮でありながらやってることの軽さが実にいいじゃありませんか。こうなったらもう自画自賛なんだけど、この「いつもの取材班」シリーズは、生徒たちがとても喜び、こう言ってくれたのです。

「先生たち、すごく楽しそうですねえ。」

これは、すごく大切なこと。

トークショー成立のための三原則のラスト項目。

「演者と聴衆の間には、相互にリスペクトする関係が成立しうる。」

 これは、この世界に、「学校」というものが存在する根拠だと思うのです。

「先生と生徒の間には、相互にリスペクトする関係が成立しうる。」

 世界中の、どんな辺境の地であっても、また古代まで時代をさかのぼっても、人が生きている場所には、必ず「学校」が存在する。大げさな話になってしまうけれど、私が生徒たちの前でお話するという行為の意味は、この「先生と生徒の相互リスペクト」という理想論と同じだと思っています。

 いや~、今回はなんだか壮大なお話になってしまいましたねえ。なんだか疲れたぞ。

しかし、本題に入らなければな。

 夏休み直前の一学期終業式の日。私が、四角いスイカ(実物)を前に置いて、生徒たちに、まず問いかけたこと。

 「四角いスイカは、『個性的なスイカ』でしょうか。」

ん?? 「個性」って、なんだろう。

よく「キミって個性的だねえ」なんて軽く言ってますね。改めて考えてみると「個性」っていったいどういう意味?

辞典で調べてみた。

個性=「ある個人を特徴づけている性質や性格」。

個性的=「人や物が、他と比較して異なる性格や性質をもっている様子」。

なんだかよくわからない。とにかく、この話を聴いてくれるのは中学生だ。

今の中学生たちは、「個性」というものを、どうとらえているのでしょう。

読者の皆さま。どうお考えですか。

「四角いスイカは、個性的か?」

…改めて、次項へ続く。

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