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第10回 連載10回記念告白。ご隠居、苦悩する。

2023.11.29

 

かなり長くこの原稿を書くのをサボっていたような気がします。理由は、古今東西で使われてきた仕事の進捗が遅いことの言い訳、「忙しかったので」でありました。新作をお待ちいただいていた皆さまがた、たぶん3人ぐらいだとは思いますがごめんなさい。

 この「忙しかったので」という言い訳は、私の人生の中でもよく使った言い回しですが、常に複数の案件を切り回していた職業人だった頃はむしろこんなことは言わなかったなあ。周囲の全員が忙しいのが当たり前だから言い訳なんかにならんわけです。むしろ、職業から解放された今、「忙しかったので」を連発しているような気がしますね。

 これから書くことは毎日ばりばりと働いている方が読むとお怒りになるかもしれないが書いてみよう。

今の私は、「仕事をしたら疲れる。疲れたら働けない。疲れをとるためには休養しなければならない。よって、仕事と休養はセットです。」という完璧な理屈で日々を過ごしております。現役で働いてたころはこんなことは実行どころか口に出すのも憚られたものですが、なにしろ今の私は「ご隠居」。

やりたいことを、やりたいときに、やりたいだけやればいい、というシチュエーションに我が身を置くことがとりあえずできている。この「とりあえず」という、中途半端感を添える言い方をしてしまうのは、このシチュエーションがなかなか自分のものになっていない現状があるからなんですね。なぜならば。

理由①。「やりたいこと」が、意外に多い。

理由②。「やりたいだけやった」あとの疲れが、隠居前と比べて数倍ある感じ。

 ご隠居生活に入った諸先輩はよく「悠々自適じゃ」などとおっしゃるが、私はまだこの「悠々自適」というやつがよくわからない。辞書には「俗世間から身を引いて安らかに暮らすこと」なんて書いてありますが、いきなり「安らかに暮らす」がどうもイメージできんのです。「お茶をすすり老眼鏡をかけて新聞を読む」「日本酒をのんでこたつで寝る」「昔の映画をみてむせび泣く」とかか?

自分の想像力が貧困なのはわかってるけど、「安らかに暮らしている自分」の像が浮かばないのです。

 そもそも「俗世間から身を引く」って、そんなことができる人がどれだけいるのか。少なくとも私は、俗世間というものはかなり好きだと思うよ。

 要するに、「私は、この俗世間で何がやりたいのか。」になるのですが、これはなかなか深いお題だったのです。

職業から離れて8ヶ月ほどたったのでそろそろ明らかにしてもいいと思うことがあるので書くことにします。これは至ってまじめなお話なのですが、おつきあいください。

今年の3月末日、「本日をもってすべての公職を辞することにした。これからは自分の好きなことをやります。」などと華々しく周囲に宣言して「多動なご隠居生活」に入りました。

なんだか歌舞伎役者が大見得を切るみたいで今思い出せば全くお恥ずかしい。というか情けない。このときの私は、「自分の好きなこと」と爽快に言い放ったくせに「自分は何が好きなのか。自分がやりたいことって、本当は何なんだ。」という大問題の解答を、まだ持っていなかったのです。

 退職して「ゴルフ三昧」「年中釣り」「旅行しまくり」「晴耕雨読」みたいな「悠々自適パターン」の噂をお聞きすることは多いし、そしてそれをやっている方の姿は目に浮かぶようですよ。その人が「好きなこと」って、「その人そのもの」みたいに感じてしまうのは私だけかなあ。それって、心底うらやましいと思うのですね。

 

私の好きなことって、どんなことだろう。

まず「おいしいものをたべること。おいしいお酒をのむこと」。

これは誰だって好きに決まっているけれど、私はどこかで幸せな飲食をしたら、それを誰かに言いたくてたまらない。今度いっしょに行こ!とだれかに言いたいから、おいしいお店を探しているような気がします。

それに似てることが「旅行」かな。

鈍行列車に揺られる貧乏旅行が好き。お金をかけずに時間をかけることができる今がうれしい。旅先のいろんなことを人にしゃべりたい。お土産を買うのも旅の重要目的ですね私の場合。「キャンプ」なんかもこれの派生形かな。

そしてたった今やっている「文章を書くこと」だ。

「おいしいもの」についての自慢話をこれまでさんざんやってきましたね。これには「面白い文章を書いて人を笑わすこと」というあまりブンガク的でない要素が強く含まれています。そもそも子どもの頃から「面白いことを言って人を笑わすこと」が大好きだったから「面白い文章を書くこと」はそれの派生形といえますね。

43年間働いて、ついに職業から解放されてできるようになったことは、例えばこんなことなんですねえ。私がこの時点で気づいたのは、「私の好きなこと」は確かにたくさんあるみたいだが、雑多でバラバラであることでした。それぞれは確かに好きなんだけど、「好きなことが、その人そのもの」とまではとても言えないことに気づいたんです。おいしい物は好きだけど、自分は美食家でもフードファイターでもない、ただのくいしんぼうだし。

私はいったい、何が好きなんだ。

職業から離れてしばらくの間、このことについてかなり考え込んでいたのです。65歳にもなって、自分のことがわからなくなった。私はなにが好きな人だったか。もっと言えば、私はいったいどんな人間なのか。そんな大事なことをわからずに、ただ職業のレールの上を走っていた。

こんなことで困るのは、人生はじめてだ。

しまったこれは想定外。こんなことになる予定じゃなかったぞ。

老人が鬱傾向の泥沼にはまりこむ話は時々聞いてはいましたが、まさか自分が? 

ずぶずぶ、うつうつ。

読者の皆さま。こんな暗いお話を読むのは苦痛ですね。でもご心配なく。今の私は、沼から完全に這い出しています。

どうやって脱出できたか。

その理由はわからないけれど、「あ、これで抜け出したな」を実感した瞬間は忘れられません。それは、今でも続けている、民間のフリースクールのお手伝いをしていたある日のことでした。

私こと多動なご隠居が、リタイア後の最初のピンチからどういう経緯で抜け出すことができたか。

以前少しご紹介した「不登校」にもふれながら語るのは、次回以降のことにしましょう。

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