第8回 世の中はいろいろに満ちている
2023.09.25
さてさて、今まで3か月近くにわたっていろいろ書いてきました。一貫しているのはすべて自分の経験であることですが、内容は激しくばらついていますね。それから「私はこれが好きだ」と主張していることが多いです。これは誤解されると困るんだけど、「私の好きなこれ」は、すべての人の中に存在するので、「私はあいにくそれは好かん」と思われてもそれはすごく正常なことだと思っています。
ただ、「私はこれが好きだ」という話をしているとき、人はとても元気になりますね。そして「私の好きなもの」について語っているとき、「その人らしさ」という波動が最強に放出されているはずです。
校長として赴任した最後の学校で、初めて子どもたちに向き合ってお話をする場面で、私はこのワザをつかいました。1学期の始業式での校長講話です。「今度の校長はどんな人かな」という好奇の目と「長くしゃべるんじゃねえぞ」という警戒のオーラを同時に感じながら全校生徒を前にした自己紹介。
「私の好きなものを持ってきたから、お見せしよう。」
その日の写真が残っています。
なんか持ってますね。拡大しましょう。
まさかの「どん兵衛」でした。このときのお話のテーマがこれだ。
「10分どん兵衛」。
今だったら、ご存じの方も多いと思います。日清食品の人気商品「どん兵衛」はお湯を注いで5分間待つ。これは常識ですね。3分と間違えたらこれは食べられない。やはり5分は厳守だ…。と、思ってますよね普通。しかしだ。
10分待ってからふたを取って食べてみるとどうなるか。
経過したのはメーカー規定の時間の倍。これは確実にぐちゃぐちゃのべろんべろんになっているに違いない。これはどん兵衛という食品に対する冒涜だ。ゆるされぬ暴挙だ。と、思ってたらほんとにびっくり。麺がのびて膨れ上がっているなんていうことはない。いつものどん兵衛のかおりが立ち昇る。さてたべてみよう。
麺は、5分で仕上げたやつよりつやつやでふっくら。これはうどんの系譜でいえば「博多うどん」一族に分類できますね。ふうわりとやわらかい食感。これにお出汁の味がよく染みます。博多の「かろのうろん」を思い出すなあ。さらに特筆すべきはお揚げだ。かつおだしがよく浸透して風味ゆたか。このジューシーな食感。もう5分どん兵衛には戻れません。
このたべかたは私の発明じゃなくて、タレントのマキタスポーツ氏が2015年に提唱されていたもの。その当時は結構話題になりましたね。
これにまたすごい後日談がついていて、日清食品が自社のHPにこんな声明をアップしたのです。
「日清食品は10分どん兵衛のことを知りませんでした。5分でおいしさをお客様に届けるということに縛られすぎていて、世の中の多様性を見抜けていなかったことを深く反省しております。おかげさまで売れています。日清食品株式会社。」
さすが日清食品。私がこの場面で伝えたかったことがすべて書かれていますよ。
キーワードは「世の中の多様性」。
そう。世の中はまさに多様。いろんな考え方、いろんな行動があっていいじゃないか。10分どん兵衛のお話は、「多くの人がやっている行動以外にも正解はたくさんある。多数派にそろえるばかりがいいことじゃないよ。」ということを、新任校長としての出会いの場面で子どもたちに、そしてそのまわりにいる先生たちに伝えたかったんです。
これは、我ながらナイスなメッセージだ。この学校の子どもたちはこれからどのような
多様性を発揮してくれるのかなあ。わくわく。
しかしこのあと、この学校に起こった現象。
私が校内を歩いていると、子どもたちが「あ、どん兵衛の人!」「どん兵衛だどん兵衛だ」と声をかけてくるのです。これは半年ほど続きましたね。ひょっとして私は「どん兵衛」という名前で呼ばれていたのか。「多様性」をどん兵衛に託したつもりでしたが、私自身が「かなりに珍しいタイプの校長」という「多様性」のサンプルになっていたのかもしれないですね。とほほ。
さて、この学校を最後に定年退職したあと、岡山市南区の市場のなかに「適応指導教室」というものを立ち上げる仕事に携わったことを、前回お話ししたところです。それは学校に登校できない子どもの居場所をつくる、という仕事でした。
登校できない子どもたちを表す言葉として「不登校」は普通に使われていますが、私が教員になった今から40年ほど前は「登校拒否」と呼ばれていました。その当時から、そんな子どもは、クラスにひとりはいたと思います。
担任をしている私を取り巻いている子どもたちの、にぎやかな輪。その輪から、はるか離れた、視界の外ににたたずんでいる子ども。若かりし頃の私は、学校に来ない子どもたちに対して、自分が何ができるのかがわからずただ途方に暮れていました。
あれからずいぶん時間がたち、相変わらず教育の世界でめしを食ってきた私も、完全におじさんになり、とうとう爺さんに近づきました。あの頃より少しは世の中のことがわかってきたと思うんですが、その「わかったこと」のひとつが、「不登校を経験した子どもの多くが、大人になったらちゃんと社会の一員になっている」という事実です。
それは、どういうことなのか。
人生を「登山」に例える人は多いから、そのたとえ話でいきましょう。人生という山の頂上にあるのは人々が形作る「社会」というもの。つまり、人は「社会の一員になる」という登山道を、頂上へ向けて歩いているわけですね。ここで大切なことは、登山道は一本だけではない、ということです。
にぎやかに大勢の子どもが登っている広い登山道、そこは「学校に行っている子ども」が選んだ道。よく整備された直登ルート。
そして、静かに少人数の子どもが登っている広くない登山道、そこは「学校に行かない」という登り方を選んだ子どもが選んだ道。いろんな景色をみながらゆっくり登れるルート。
多くの親が、広くて登山者の流れに沿って登れば頂上に近づけるルートを選びます。「学校に行かない」という選択肢を現実のこととして突き付けられた親にとって、それは当事者でないととてもわからないほどの強い不安と混乱。簡単に受け入れられるもんじゃないのですね。
でも、いちど立ち止まって、落ち着いて考えてみよう。
少人数で登る道を選んだっていいんだ。直登ルートじゃないから時間はかかるけど、自分のペースで登れるのはこっちだ。大勢でわいわい登る、という感じじゃないけど、最後には、同じ頂上にたどり着けるんだから。
こんな大きな問題を「10分どん兵衛」の話とくっつけるなんて、なんて軽薄な!と思われますね。確かにそうです。でも、本質的な部分に同じ考え方が、重く居座っています。
「こうするのが、当たり前だろう。」
「学校は、行くのが当たり前だろう。」
日清食品のコメントと、ぴったり重なりますねえ。
「学校に入学して、そこで学ぶことに縛られすぎていて、子どもの成長の多様性を見抜けていなかったことを、深く反省しております。」
人生いろいろ。これは大人の人生だけにあてはまることじゃない。子どもだっておとなだって、社会全体が、「いろいろ」でいいんです。
ほんとうに世の中は、いろいろに満ちています。「多様性」は、このコラムの読者の皆さまに常に提案しているお題です。
まずは、そう。10分どん兵衛を試してみてはいかがかな。