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第7回 冷やし中華と映画館

2023.09.04

前回ご紹介した「冷やし中華」の画像がちょっとした話題になりました。Z世代的表現でいえば「バズった」。数人の友だちから直接連絡をいただいたのであります。内容は、ひとことで言ってしまえば「うまそう」なのですが、もっと具体的に言えばこういう意見。

「具が多いな」。

もともと「冷やし中華」が「うまそう」に見えるのは、ほとんどハムやキュウリやたまごのきざんだやつが麺の上に美しく配置されているからなんですね。「美しく」見せるには具の種類と量はどうしても必要なのでしょう。

すごくうまそうな「素うどん」というものはあるような気がします。でも「素冷やし中華」は、あまりうまそうには見えないです。

では、前回ご紹介した「冷やし中華」2点の写真を、再度ご覧ください。

見事ですねえ。

それぞれ別の2軒のお店で実際に私がたべた冷やし中華。どちらにも共通するのが「麺がまったく見えない」ことですね。

ラーメンやうどんにも、具だくさんで麺が見えないやつがあったりするけれど、それらの多くは「チャーシュー麺」みたいな上位グレードのことですよ。でもここでご紹介した冷やし中華はどちらも通常グレードなんですよね。

冷やし中華の具は、麺を覆いつくすもの。この冷やし中華の作り手にとっては、これはもはや「信念」なのかもしれないな。

ここでちょっと、別の話を思い出してしまいました。

(この連載エッセイの一大特色はどんどん話題が変わることなのです。なにしろ「雑談」が基本形ですから。ここからまた急激に話題を変えますが、どうかがんばって読んでくださいな。)

読者の皆さま。最近、映画を観に行かれましたか。

私が住んでいる岡山市で映画を観るとしたら、スクリーンがいくつもある「シネコン」に行く人がほとんどです。名画を自主上映する館は一館だけ。

でも、今でもどこかの地方都市に行けば、昔ながらの「町の映画館」があるんだろうなあ。これが実に懐かしいのです。二本立て上映なんかやってた古びた映画館。

こんな小さな映画館と、シネコンの違いはたくさんあるけれど、私がここで話題にしたいのは、このことだ。

「上映前のスクリーンを隠している幕が、あるかないか」。

昔の「町の映画館」は、例えばこんな感じでしたねえ。

上映時刻になると、まずブザーが鳴る。

びぃぃぃぃぃぃ~。ここで女声のアナウンス。

「本日は、当〇〇シネマにご来場いただき、まことにありがとうございます。これより『〇〇〇〇』を上映いたします。上映終了時刻は……。」と、とてもご丁寧なご案内の、そのあとだ。

低いモーター音とともにスクリーンを隠していたドレープのカーテンみたいな幕がするすると開く。それに同調して場内の照明がフェイドアウト。すかさず映写機に灯が入り、近日上映作品の予告編が始まりましたよ~。

ここで大事なのは、あの当時の映画館では「何も映っていない白いスクリーン」を見ることがなかった、ということなのです。

上映前は幕がかかっている。上映開始とともにそれは開くんだが照明が落ちて映写が始まるのがほぼ同時なので「何も映っていない白いスクリーン」が観客の目に触れることはなかったのです。

それはなぜでしょう。

私はずっとこう思っています。

昔の映写技師は、何も映っていない白いスクリーンを観客の前に晒すことを、恥ずかしいことだと考えていたから。

映写技師のこの信念のおかげで、暗い座席にすわったわが身が、そのまま映画という異世界にふわああっと遷移していくのです。この、わずか30秒間ほどの大切な「儀式」。

昔の映画館には、これがあった。

この考えはもはや幻想なのか。

シネコンではどうか。

空白のスクリーンはかなりの時間放置されているし、映写が始まるのもなんだか唐突で、自宅のDVDデッキのスイッチを押して再生が始まる感覚に似ている。「儀式」なんていう要素はまるでない、無機的な時間の経過しか感じないんだがなあ。

さて、やっと我に返ったぞ。話をもとに戻そう。何の話だったか。

そうだ。さきほどご覧いただいた見事な冷やし中華のことだ。

どちらも麺は具に覆いつくされていて全く見えない。これはレアケースかもしれないが、やはり作り手の信念だ。

ウチの冷やし中華はこうだ。具のすきまから麺がみえてるなんて、みっともねえや。

昔の映画館の映写室を守っていた技師の信念と、本質は同じなのではないか。

実に実に、かっこいいではありませんか。その矜持、しかと受け止めましたぞ。

小高い麺の丘をぐるりと覆う具の数々を割りばしではがし、丁寧に麺とタレに織り交ぜる。口の中に広がる具と麺とタレの調和に陶酔しながらも、時には酢と辛子にむせ返るのもまた一興だ。げほっ。無心にきれいにたべつくし、わずかなタレが残った器を眺めるときの満ち足りた気持ち。ああ、夏よ永遠に終わるな。異常気象はつらいけど、この冷やし中華さえあれば、人類にとって夏はよい季節であり続けるのだ。

 冷やし中華と映画館は、お互いに直接的な関係はない存在だけど、そこで見つけた「仕事に対する確信」というものは本質的に同じだ。前回の焼きめしのお話にしても、結局私が言いたかったのはこのことでした。実に回りくどいな。農家さんだって漁師さんだって、きっと「仕事に対する確信」は、深いところで大切にされている基本原理ではないですか。合理化・効率化の今の時代、自分の仕事に対する信念とか確信とかいうものを維持していくことは、難しくなっているのですが。

さて読者の皆さま。ここでご紹介した「冷やし中華」はどこにあるのか。知りたいですか。どちらも小さな店舗なので、冷やし中華みたいな手間のかかるオーダーが殺到するとかなりに迷惑をかけると思うし、この文章が公開されるころにはもう「冷やし中華終わりました」という悲しい事態になっているような気もしますので、今日はまず所在地をお教えしましょう。

 

その2軒のお店は、どちらも岡山市南区市場にある「中央卸売市場」内の「ふくふく通り」という一般向けの飲食街の中にあります。1980年代に建設された古びた建物内にずらりとお店が並びます。もともと市場業務に従事する人のための食堂街だったので、開店は早い店で午前5時。14時前にはほぼ閉店です。外見をオシャレに見せようという意欲は極めて低く、何の店かわからない、営業中かどうかもさだかでないほど地味。前回ご紹介した洋食屋「シモショク」もこの中にありますが、注意して歩かないと確実に通過します。私は「保護色の店」と呼んでいる。おいしい店ほどこの傾向は強いのです。

岡山市南区の隠れたパラダイス、市場ふくふく通り。実は私、この「ふくふく通り」のマイスターを自認しておるのであります。それはなぜか。

5年前、私は毎日、ここでひるめしをたべていたから。

この連載エッセイの初回に、私の略歴が掲載されていました。それをお読みいただくまでもなく、私は市場関係の仕事はしておりません。

学校現場を定年退職した平成30年4月、岡山市教育委員会からこの市場の敷地内に「適応指導教室」というものをつくれ、というお題をいただいたのです。「適応指導教室」ってなんでしょう。一言でいえば、不登校の子どもの居場所です。

学校に行けない子どもが生活できる場所をゼロからつくる。こんな仕事は初めてです。市場でひるめしをたべる生活も、その日から始まりました。

以後、不登校の子どもとその親、そして行けなくなった学校の先生を応援することが、今に至るまで私の仕事になっています。 ぼつぼつ、そんなこともお話ししていきましょうね。

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